夏を思わせるような五月の午後、新宿の南口にあるJR東日本本社ビルに男たちが集まりました。
目的は作家・出口裕弘氏の上野駅取材の同行。東京の変貌ぶりを新書にまとめる仕事なのだそうです。
JR東日本の方に上野駅取材のアポイントを取ると、なぜかまず新宿の本社に通されました。
でもその理由は、上野駅の改修の指揮を取った、JR東日本旅客鉄道株式会社の新井常務取締役(写真左)と面会すれば、何でもご存じの氏にお話を伺うことができるということだったのです。
出口氏(写真右)が知りたかったのは、日本のあちこちで古い建物が壊されていく中、上野駅がその古さを保ちながら改修された、そのいきさつでした。
そしてやはりというべきか、そこには実際、こういう駅にするという設計思想があったのです。新井氏の話は以下のようなものでした。
* *
空襲でも焼け残った上野駅ですが、90年代には300メートルの超高層ビル化計画もありました。これはバブルの崩壊で頓挫し、一方、地域全体の財産を残そうという意見も根強くありましたので、現在の駅舎を活用する計画をJRで作成し、東京芸術大学の先生に会って、意見を聞こうということになりました。
芸大は、日本を代表する大学であると同時に、地元の学校でもありますから。
そこで芸大の宮田学長を訪ね、新しい上野駅についての構想を話しました。
すると「上野駅を壊す? いやいや、私はドイツに留学したときにホームシックになり、ドイツのターミナル駅にわざわざ行って、本を読み、心を癒していたんですよ、上野駅を思い出しながら。上野駅は、ヨーロッパの駅に似ているんです」
これで、壊さないという駅の再開発の方向に理解を得、その方針のもと、プロジェクトチームが発足しました。
しかし設計に入る以前に、様々な問題がありました。
まず、浅草vs上野といった、地域間競争に負けないようにすること。
それから「JRは駅という自分の商業施設を囲って、周囲の商店街を締め出すのでは」といった地元の不安を払拭すること。
そこで地元の人や行政の人と一緒に町歩きをすることになりました。
15人もの一行で、上野駅の周囲を歩き、ここはこうする、こうしない、といった話を山のようにし、話し合いには地元のおもちゃ屋さんやカメラ屋さんにも加わってもらいました。
その場ではっきり申し上げたのは、
「JR、地域、行政の三位一体による計画とし、JRも自ら積極的に計画を推進していく」ということでした。
またこちらからも意見を言いました。
「お台場などとの地域間格差は、上野の人が、地元にあぐらをかいていたから生じたのではいですか?
JRだけでなく、行政や地元もしっかりしたスタンスを持ってほしい。変える努力をしてほしいんです」
「家族連れにリピータになってほしいのに、街が汚いままでは困ります。
上野には、動物園をはじめとして、親子の絆を保つ仕組みがあるのに、どうしてしっかりやらないんですか。私たちも必ず地域とともに歩いていきますから、頑張りましょう」
夜も、地元の人や宮田学長らと議論しているうちに、地域も力を出してきました。
そして最終的には地元の人たちにも納得してもらえました。
しかし、これで設計に入れるかというと、そうは問屋が卸してくれません。
大店法(大規模小売店舗法)があったからです。
駅といっても、デパートと同じ商業施設ですから、改定された大店法の、おそらく第一号の適用が行われ、今度はJRの数人が数百人の地元の人たちに対する、という形で議論が行われました。
この場でも、駅は鉄道のためのものだからデパートとは違う、とか、
駅の中を通行する人が街に行きたくなるように改札から街が見えるようにする、といった意見を申し上げ、皆さんに納得していただきました。
大変な作業でしたが、ようやく1999年から工事を始め、ついに2002年2月22日のオープンにこぎつけたのです。
そんなふうにして完成した上野駅はJRの商業施設の第一号としてとても注目されました。
ハードロックカフェやスターバックスも街中とは違うスキームで出してもらいました。
また宮田さんは「漆喰(しっくい)がもったいない」とおっしゃるので、カネがかかっても残すように言いました。
でも保存する、ということには、莫大なカネがかかるのです。壁画の保存のために足場を組むだけで数百万かかるんですよ。これには芸大と修復研究所が協力してくれました。
またとくに女性トイレを増やしました。
従来、通勤時の男女比で決めていたので、男性用トイレが多かったんですが、一日を通して見ると、男女の比は同じです。そこで、女性用のトイレを増やしたんです。さらにパウダールームも作りました。
その結果、女性の数がとても増えました。それにつられて男性も増え、皆さん、街中へも足を運ぶようになったのです。実際、改札を通る人が15%増えました。
それまでJRは鉄道だけでやってきましたが、平成9年(1997年)に本社組織を改正して新たに「事業創造本部」を設置しました。そして「生活サービス事業」を「鉄道事業」と並ぶ車の両輪とし、サービス部門もJRを支える重要な位置づけをもらいましたので、今回の件は「サービス」側が「鉄道」を説得した形になりました。
これは、道路公団の民営化でも活躍した松田さんや大塚さんが「これからは生活サービス」と言って説得してくれたことが大きいですね。
時代を生き残っていくものが文化でしょうから、JRとして、文化をどう継承させていくか、ということを考えていきます。
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新宿での取材を終え、上野駅に行って、その改修の前と後を見せていただき、アトレのタイ料理屋で食事をすませた一行は、古さと新しさが同居するその不思議な構造物に、日本の駅といえばみな同じ、というこれまでの常識を覆す形で戦後と21世紀をつなぎ合わせた人々の、生活を守りながらも前に進もうという心意気を感じたのでありました。
そして、この上野駅の改修によって、たしかに日本は大きく一歩、前進したのであります。
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